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昨日は敬老の日。
祖父と祖母に寝まきを送りました☆

そのお返しに大正3年生まれの祖父から1枚の手紙をもらいました。
少し前にこの日記に「豊かに生きる」という手紙を書きましたが、それとは別の文です。
ここにその文を掲載したいと思います。

「秋風颯颯」

8月15日の終戦記念日に両陛下が戦死者の霊を弔うための、墓標に参拝せられた姿が
新聞で拝見することが出来た。

この墓標は我々国民にとっては「真の法身」即ち「真心」の墓標と考えられるもので、
国民にとっては自家の祖先の墓石と同じ思考に依るものであると考えている。
靖国神社の問題で参考までに。市民のお詣りしやすい場所に。

小生中学生の頃(昭和年代の始まりで当時は支那事変という)当時の漢文の先生に
いきなりに「仁と徳」とは儒教の教えの言葉と聞きましたが
「どういう行動をとるのか、意味は何ですか」
と質問したら、先生はスラスラと答えて曰く
「徳は得なりというて、自分の躰に着いたもの、即ち自分の行動であって、仁とは他人への思いやりを持つことだ」と答えられた。
このことは今でも忘れられない思い出となった。

中国人の儒教という宗教は
「仁・義・礼・智・信」に始まり、道教という古来からの宗教は「大道湛然」に終わる。こんなことは誰でも知っている。
ところが現実の中国人の現状の思想はと聞かれると、現状では若い人はキリスト教が多く、
道・儒・佛と混然と融合して、中国新思想として世界宗教界では別の一派を成立させて、新中国は「新宗教に変わった」と云われている。

今回は「明」(ミンと称した時代 1350年頃より1650年頃)に中国人が、中国民族による、
中国らしい政治をした時代に「道・儒・仏」を修めた処士という士官しなかった人で、名を洪自誠(コウ・ジセイ)といい、「采根譚」という本を書いた人の話しを聞いてみたい。

采根譚といっても料理の本では無い。日本で徒然草を書いた吉田兼好と同じ頃で、日本では
足利尊氏が室町幕府を開き、五山文学が盛況であったから、明国との交流を求めていた。

《我が身は一小天地なり。喜怒をしてあやまらず、好悪(こうお)をして則(のり)有らしめば即ち是れショウ理的工夫。天地は一大父母なり。民をして怨シ無く、物をして気疹(きしん)なからしめば、亦た是れ敦睦的(とんぼくてき)の気象。采根譚前編128項》

その意は明国の時代は中国の交通が開けて、西方のギリシャの哲学、インドのヒンズーの文化、それに中国古来の東洋の文化(儒教の思想)が混然として、新しい言葉や文字(明音)が出来て、イスラムの思想やキリスト教が影響した新しい中国思想が生まれて来る。

王陽明の「傳習録」が出来たのもこの頃であった。
人生は広い小宇宙なりという考え方は中国人古来の思想であったが、短い生命の中でも物や金があるといって喜んだり歎いたりすることは無い。喜怒をとがめず、好悪をして法則に従って生きることだ。

平和な解決が必ずおとずれる。

災害に遭ったら父の慈拳(じけん)と思い、たまたま幸運に恵まれても、母の母乳と考えて感謝し頂戴する。

災害のときは自分ばかりでなく、他人も一所になりと考えて怒ることなく、仕返しなど考えず平和的に解決する。天気や気象が悪かったと考えなさい。そして雨の止むのを待つ。

ショウ(すいません変換できませんでした。火言火の下に又という字です。)は「和らぐ」の意で、天地の道理。天地は一大父母というのと同じで我が身は天地の中に生まれ、陰と陽の二気を受けて生まれて来たのであるから、この点では萬物悉(ことごと)く同一父母の子、天地同根、萬物一体、他人と「物」に親しく切し、兄弟、眷族和合して生きていく。天地を模範として「我」を戒めたものであった。

采根譚は前集223編・後134編で前集は処生上の「教訓」・後集は引退後(隠居する)の立言で天地の「主我」を開く。

最後に仏教に対しては因縁(いんねん)に従ってついて行く、儒教という中国本来の教えには「素位」(そい)といってその人の位によって教育を行い、他を顧みることなく他を侵さない、互いに調和をしていくことが君子(くんし)の道であると結んでいる。

これからも色んなこと教えて下さい。
御身体御自愛下さい。

合掌

鳳雛

児玉 文朋

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