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父の逝去から今日で2ヶ月が経ちました。

冷静になればなるほど現実は受け入れがたいものですね。

予想はしてましたが。

「人は死んだらどうなるのか」

永遠に答えは出ないのかな。

それともいつか解明するのかな。

家の宗派ではどうなることになっているのか。

そんなことすらお寺に生れたくせに分かりません。

実は高校3年生の時、部活を引退して、自分の道を考えたときに、

少しだけこのことを考えて、仏門に入ることも考えました。

その時はまだ本格的になんて考えてなくて、

今こうしてそれを考えると結局あれから十数年経っているのに

何も変わらず終いです。

父は事あるごとに私に仏の道を勧めました。

そしてその度に

「俺にお経なんてよまれたら浮かばれないよ」

と言葉を濁し、逃げ続けていました。

「いざとなったらお寺があるからね」

とまわりの人に言われる度に、何か逃げ道のあるような、

そんな反発心なんかもありつつ、今こうして好きなようにさせて頂いてます。

実家は先日、兄が住職となり、毎日を奔走しているようです。

不思議なのはいつも父が今の自分をどう思っているのか、

常に気にしていました。

きっとどこかで仏門に入らなかった自分が、今この仕事をして、

こんなことをやった、あそこに行って演奏してきた、

だから

「こいつはこいつで頑張っているんだな」

と思って欲しかったのかもしれません。

前のブログにも書いたことがあるかもしれませんが、

自分は「今日は最高だった!!」

と演奏後に思ったことはありません。

うまく書けないので語弊があるかもしれませんが、

例えば観にいらした方に「よかった」と言われる程、申し訳ない気持ちになる人間なんです。

日々せわしなくその準備をしても、もっと、と思えるこの今の仕事が大好きです。

そんな不満足をあたかも満足しているように、

自分でもわかっているのに、

上辺だけの

「俺は大丈夫だから」

を父に伝えていました。

きっとそんなのお見通しなんだろうな。

病床で父は

「なあ文朋、なかなか死ねないっていうのも辛いもんだなぁ。」

と何度か口にしました。

去年の夏、一時退院をした父は知らない間に写真室に

自分の遺影の撮影に行っていました。

自分の退院をしたのに死期が分かっていたように。

そんな様子を見ながらも何も出来ない自分が腹ただしかった。

ただ一つだけ、孫の顔が見せられた事。

本当によかった。

あんな父の顔は初めて見た。

くしゃくしゃにほころんだだらしない顔で、

孫の名前を呼ぶその顔は今でも鮮明に思い出せる。

生れたての時は抱っこしてと頼んでも、

「いや、私は・・・。」

なんて言ってたくせに、

少しも経たないうちに自分からしてくれたり。

そして退院していた時期に一緒に海に行けたこと。

突然「海がみたい」なんてドラマみたいなことを言って、

体力も気力も弱っていたくせに。

子どもには何度も何度も

おじいちゃんは君のことを本当に愛していた

と教えたあげたい。

たった1年4か月しか一緒に居られなかったけど、

本当に想っていたと伝えようと思う。

死んでなお大きい存在になった気がします。

太鼓を打つ時、大太鼓が特に多いのですが、

最近よく父を思い出します。

大太鼓を打っていると、不思議とどこかにいるだろう父に届いている気がしたり。

そんな大それた奏者では無いんですが、なんかこう。

なんか感傷的になった。

さ、仕事しよっと。

お父さん、じゃあね。

和楽器集団「鳳雛」

兒玉 文朋

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